篠ノ井~小田切
古くから塩の道、千国街道・大町と北国街道・善光寺を結ぶ大町街道は、美麻・小川・中条の峰を通る街道とし利用されていた。
また旧馬上街道は長野市小市と戸隠を結び賑わった街道でその昔8番西明寺の観音堂も街道沿いにあったという。西明寺からは領主小田切氏の要害吉窪場跡も近い。
Area - Oomachi-kaido・Togakushi-kaido
古くから塩の道、千国街道・大町と北国街道・善光寺を結ぶ大町街道は、美麻・小川・中条の峰を通る街道とし利用されていた。
また旧馬上街道は長野市小市と戸隠を結び賑わった街道でその昔8番西明寺の観音堂も街道沿いにあったという。西明寺からは領主小田切氏の要害吉窪場跡も近い。
りんご畑の一画に観音堂だけが建つ小さな寺だが、そこに安置されている十一面観音像は、数奇な運命をたどってこの地にたどりついた。行基作と伝えられるこの尊像は、伊那の常円寺にあったのが、塩尻の常光寺に移されたものである。ところが廃仏毀釈で廃寺となった際に古美術商の手に渡り、大阪方面へ売られることとなった。この時、信心家で知られた岡澤彦治郎氏がたまたま観音像を持った古美術商と宿で一緒になり、信濃の観音さまが無くなるのを惜しみ古美術商を説得し買い戻したという。その後、観音堂を建立し以前の寺名を冠して21番札所を復活させた。
無常院は天台宗の僧・誓林坊が永承三年(1048)に開基し、一時衰退したものの、天正二年(1574)に京都知恩院派の古刹として再興され、地域の信仰を集めてきた。善光寺と同じ「立葵」を寺紋とし、古くから善光寺七院のひとつに数えられてきた由緒ある寺院である。秘仏である銅製鋳造の本尊も「善光寺仏」と呼ばれる一光三尊の阿弥陀如来像で、鎌倉時代中期の作と推定され、長野県の文化財に指定されている。
山号である「時頼山」は鎌倉幕府五代執権を務めた北条時頼が自ら名付けたと伝えられている。寺名の「西明寺」は、病を得て執権の座を退いた時頼が出家して名乗った「西明寺入道」にちなむ。一説には入道が堂宇を建立し、千手観音をまつった開基ともいわれる。嘉永5年(1852)、地元で学問や手習いを教えていた塩入離惣太という人が私財を投じて2キロほど山中より現地に移転。以来、塩入氏が代々堂宇を引き継ぎ、観音堂は村人たちの拠り所として親しまれてきた。