保科~松代~倉科・森
高顕寺より約20キロ南西に「保科観音」で知られる16番清水寺がある。保科から出た武士、保科正俊は武田氏の下で高遠城代になった。上田や群馬へ、山越えの道につながるこの地は、今も長い歴史と信仰に支えられている。
「虫歌観音」で知られる7番桑台院は、数多くの不思議な伝承を持つ皆神山を正面に、霊峰戸隠高妻山を拝する場所に位置している。4番風雲庵は川中島合戦で上杉謙信が陣をとった妻女山の東麓。妻女山展望台から千曲川が潤す肥沃の大地、善光寺を望むことができる。
Area - Tani-kaido
高顕寺より約20キロ南西に「保科観音」で知られる16番清水寺がある。保科から出た武士、保科正俊は武田氏の下で高遠城代になった。上田や群馬へ、山越えの道につながるこの地は、今も長い歴史と信仰に支えられている。
「虫歌観音」で知られる7番桑台院は、数多くの不思議な伝承を持つ皆神山を正面に、霊峰戸隠高妻山を拝する場所に位置している。4番風雲庵は川中島合戦で上杉謙信が陣をとった妻女山の東麓。妻女山展望台から千曲川が潤す肥沃の大地、善光寺を望むことができる。
天平14年(742)、僧行基が自ら刻んだ三体の千手観音の一体をこの地に安置したのが始まりと寺伝にあり、延暦20年(801)、坂上田村麻呂が蝦夷平定を祈願し、その成就に感謝して伽藍を建立したと伝えられる。足利時代には八代将軍義政の篤い帰衣を受け、三重塔をはじめとする三十余の同塔を連ねた一大霊場をなした。その後、数度にわたって火災に遭い、中でも大正五年(1916)五月の保科大火では、観音堂、釈迦堂、三重塔もろとも一山の伽藍を消失。その後、奈良の石居寺より二十数体の仏像を迎えて再建した。
奈良時代、僧行基がこの地を訪れた際、桑の巨木から立木のまま1丈6尺の千手観音像を三体刻まれ、そのうちの一体は奇妙山西中腹のこの地に安置したのが起源と伝えられる。もう2体は7番札所の桑台院と16番札所の清水寺に安置されたと伝えられ、昔からこの3寺を1度に巡礼するとご利益が大きいとされた。奈良時代坂上田村麻呂が東国制覇の折、祈願所として堂宇を建立したとされ、最盛期には36坊・7堂伽藍をそろえ、山岳信仰の一大霊場として栄えたと伝えられる。
「虫歌山」という山名や「桑台院」という寺院名が養蚕との関わりをうかがわせる通り、この地方では古くから養蚕が盛んで「むしおだの観音さん」または「むしうたの観音さん」と親しまれてきた。蚕を病害から守り、養蚕の隆盛を祈願する人々が熱心に参拝し、往時には縁日に市がたち、ごった返す参詣者で歩けないほどの賑わいであったと伝えられる。『虫歌』の由来に、信心深い旅人が、無数の蚕の繭の中から響くさなぎの泣き声に驚き、僧を呼んで蚕を供養する堂宇を建てたのが始まりという昔語りも伝わっている。一丈八尺の大きな千手観音は県下最大級のお姿である。
戦国時代、永禄4年(1561年)8月、川中島合戦の戦勝を祈願する武田信玄の夢枕に、本尊の観音さまが立ち戦術を授けたと伝えられる。この霊夢に感謝して、信玄は寺地を寄進して深く信仰したと伝えられる。 寺は廃仏毀釈で一時は廃寺になったが、信仰篤い近在の人々の尽力で復興し、現在も地域ぐるみで守り続けている。枝垂桜が美しい境内として知られる。明治時代の女優、松井須磨子はこの地の出身である。
開基は平安初期。坂上田村麻呂が、京の青年仏師に頼まれ、東征に向かう途中で当地に立ち寄り、一体の十一面観音を安置したのが始まりとの言い伝えがある。観音像は、青年のふるさとである倉科の里に住む恋しい娘の面影を映した姿。美しい恋人を忘れられずに京で仏師となった青年が、思いを込めて彫ったものを、征夷大将軍に託したと、伝説は伝えている。倉科は美人の里として知られている。
平安時代、征夷大将軍・坂上田村麻呂は、東征に際し苦戦から救ってくれた観音に感謝して、この地に一宇を建立して千手観音をまつったのが寺の開基と伝えられる。本尊の他にも、立派な仏像を多数伝え、往時の隆盛を偲ぶことができる。昭和五十年代より無住となるが、地元の信徒が大切に守り続けている。あんずの里として知られる森の農道をたどった先の高台に位置し、あんずの花の咲く季節には美しい眺めが広がる。地元では「森のお観音さん」という愛称で親しまれている。