八幡~塩崎
北国西街道は中山道と北国街道を繋ぐ道として開削された道で、中山道洗馬宿から北上し丹波島で北国街道と合流する道である。 善光寺街道とも呼ばれ、西国の人々の善光寺参り、信濃以北の人々の伊勢参り・金比羅参りで賑わった信仰の道として有名である。世に名高い信濃の国の『姥捨物語』は、14番長楽寺あたりの伝承とされている。西行法師が阿弥陀仏四十八願にちなみ「四十八枚田」と名付けた美しき棚田はいま消えつつある日本の原風景だ。
Area - Zenkoji-kaido(Chikuma・Nagano)
北国西街道は中山道と北国街道を繋ぐ道として開削された道で、中山道洗馬宿から北上し丹波島で北国街道と合流する道である。 善光寺街道とも呼ばれ、西国の人々の善光寺参り、信濃以北の人々の伊勢参り・金比羅参りで賑わった信仰の道として有名である。世に名高い信濃の国の『姥捨物語』は、14番長楽寺あたりの伝承とされている。西行法師が阿弥陀仏四十八願にちなみ「四十八枚田」と名付けた美しき棚田はいま消えつつある日本の原風景だ。
ご本尊の聖観音菩薩は「日不見の観音」と呼ばれ、厨子の扉を開けることを禁じられていた。扉を開けると北風が吹いて水害が起き、開扉した者は急死、住職にも不幸があると信じられていたからである。昭和46年2月、本堂の屋根葺き替えに際し信者一同が厨子を移動中、突然扉が開いた。金色の立像で、脇侍の阿弥陀如来、地蔵菩薩像とも、同じ仏師による江戸時代初期の作と推定され、藤原時代の古様式にならった洗練の彫技が見て取れ、荘厳かつ慈悲にあふれた雰囲気を持っている。
「古今和歌集」には、幾人もの歌人が「さらしなの地」や「おばすて山」を月の名所として詠んだ歌が編まれている。江戸時代の縁起によれば、木花咲耶姫神の姉の大山姫は姿醜く心悪しき女神だったが、妹神の娘である姪の木の花姫から北の国の満月を見て歌に詠めば心が清まると教え諭され、はるばる当地を訪れた。折しも中秋の秋の夜で、大岩の上から満月を見て徳念が生じ昇天した。叔母(=姨)姫が凡慮を捨てた岩ゆえ、以来この大岩を「姨石」 、この地を「姨捨」と呼ぶようになったという。
信州屈指の古刹で、飛鳥時代、允恭天皇六代の孫・白助翁が善光寺如来のお告げを受け、両親の菩提供養に奈良初瀬から十一面観世音菩薩を勧請してこの地に奉安したのが始まりと伝えられる。大和、鎌倉と並ぶ日本三大長谷観音の一霊場として名高く、木曽義仲の兵火に遭って後、鎌倉時代中期に再建された荘厳な伽藍の面影を今によく伝えている。本尊十一面観世音菩薩は秘仏で、善光寺御開帳の翌年、四月の縁日を中心に数日間開帳される。白助翁の妻の化身にして、人の肌の温もりを失わない「人肌観音」として多くの信仰をあつめる。