麻績~坂井、青柳~西条~会田
長野と松本を結ぶひとすじの街道がある。かつて善光寺詣りの人々で賑わった北国西街道(善光寺道)だ。その中間に位置する麻績宿付近には六つの札所が点在する。
比較的近い場所にかたまってあるためにこの地域から巡礼を始めることをおすすめする。慌しい日常の生活からしばし離れて一番札所法善寺を目指して歩いてみる。のどかな田園を流れる風を頬に感じ始めたらもう巡礼は始まっている。
Area - Zenkoji-kaido(Omi・Chikuhoku・Matsumoto)
長野と松本を結ぶひとすじの街道がある。かつて善光寺詣りの人々で賑わった北国西街道(善光寺道)だ。その中間に位置する麻績宿付近には六つの札所が点在する。
比較的近い場所にかたまってあるためにこの地域から巡礼を始めることをおすすめする。慌しい日常の生活からしばし離れて一番札所法善寺を目指して歩いてみる。のどかな田園を流れる風を頬に感じ始めたらもう巡礼は始まっている。
奈良時代の和同年間に奈良興福寺の末寺として創建され、当初は岩龍山西谷寺と号した。15世紀の明応元年(1492)に賢甫宗俊禅師を迎えて曹洞宗の寺院として中興され、佛眼山法善寺となった。麻績城主服部清信が帰依し、本尊聖観世音菩薩は家庭円満の守り仏として檀徒、村民の篤い帰依を受け今に至っている。江戸時代には徳川三代家光から十三代家定まで年八石を賜る御朱印寺として将軍家の保護を受けた。
一番法善寺にほど近い観月苑の敷地内にまつられている。宗善寺は江戸初期の開創が伝えられ、病気平癒のご利益で知られていた。明治初期の廃仏毀釈で廃寺となったが、本尊の十一面観世音菩薩は、麻績宿の本陣臼井家当主が寄進したものであったことから、廃寺以後も臼井家内に観音堂を建て、代々の当主が護持してきた。平成8年より一時期法善寺に遷座していたが、平成12年村宝に指定されたのを機に、村民の寄進により新しい六角堂が建立され、現在の地に安置されるに至った。
開基など寺歴は不明ながら、源義経の家来だった佐藤継信と、その愛馬「するすみ」にまつわる伝説が縁起として伝えられている。古代、信濃は優良な馬の産地であった。継信は源平合戦で戦死した信濃駒を慰霊するとともに、優れた駒を調達して奥州へ向かう任務を帯びて通りかかったこの地で、義経から賜った名馬するすみが急死してしまう。愛馬を葬った継信から手厚い供養を依頼された村人が、後に堂を建立し、馬頭観音を祀るようになったという。するすみの歯と伝えられるものが供養されている。
奇岩、奇峰を持つ岩殿山の麓。別所川のせせらぎが響く自然豊かな地に位置する古刹である。中世には七堂伽藍が立ち並び、75社4院12坊を連ねたとされ、岩殿山とその南の富蔵山一帯に広がる天台修験道場の中心寺院として格式と隆盛を誇ったが、江戸、昭和の大火で堂塔のほとんどが消失した。火難を免れた銅製懸仏の御正体と大日如来像は国の重要文化財となっている。なお、信濃三十三観音札所は当寺の前住職が生前、寝食を惜しんで復興に尽力され、現在に至っている。
17番札所の本尊十一面観音は、江戸末期まで存在していた今見堂の本尊であったが、廃仏毀釈でお堂が廃され関昌寺に移された。関昌寺は中世から戦国期に当地を治めた青柳氏が元禄元年(1688)に領民の無事安穏を祈願して創建したと伝えられる。青柳氏は古くより隆盛していた碩水寺を信奉したが、関昌寺はその末寺のひとつであった。現在、本尊はこの碩水寺に移り守られている。地域の歴史を伝え見守る観音さまであり、一升の豆を供えると「一生マメに暮らせる」といわれ、今も豆のお供えが絶えない。
天平勝宝年間(750年前後)の頃、僧・行基が通りかかった際、奇岩・怪岩が横たわり青松が生い茂る当地を霊地と感じ、自ら千手観音を刻んで安置したと伝えられる。その後、諸国巡歴中の弘法大師もこの地の尊厳な様子に感銘し、爪彫りの大日如来、大黒天などを安置、供養塔婆を建てたと語り伝えられている。観音堂に安置されている千手観音は江戸時代の作。堂の周囲には数十体の石仏群や弘法大師像が建ち、付近の岩壁には地蔵尊の摩崖仏などもあって、森閑とした霊地のおもむきに浸ることができる。